2016年8月29日月曜日

青年の早急なる腹切と仇討

 切腹をもって名誉となしたることは、おのずからその濫用に対し少なからざる誘惑を与えた。全然道理にかなわざる事柄のため、もしくは全然死に値せざる理由のために、早急なる青年は富んで火に入る夏の虫のごとく死についた。混乱かつ曖昧なる動機が武士を切腹に駆りしことは、尼僧を駆りて修道院の門をくぐらしめるよりも多くあった。生命は安くあった。世間の名誉の標準をもって計るに安いものであった。最も悲しむべきことは、名誉に常に打歩が付いていた。いわば常に正金でなく、劣等の金属を混じていたのである。
 しかしながら、真の武士にとりては、死を急ぎもしくは死に媚びるは等しく卑怯であった。一人の典型的なる武士は一戦また一戦に敗れ、野より山、森より洞へと追われ、単身飢えて薄暗き木のうつろいの中にひそみ、刀欠け、矢尽きし時にも、最も高邁なるローマ人もかかる場合ピリピリにて弓が刃に伏したではないか。死をもって卑怯と考え、キリスト教の殉職者に近き忍耐をもって已を励ました。
 報復、もしくは仇討は、同様の制度もしくは習慣はすべての民族の間に行われたのであり、かつ今日でも廃れていないことは、決闘やリンチの存続によって証明される。
 仇討には人の正義感を満足せしむるものがある。仇討の推理は簡単であり幼稚である。それにもかかわらずこの中に人間生まれながらの正確なり平衡感および平等なる正義感が現れている。吾人の仇討の感覚は数理力のように正確であって、方程式の両項が満足されるまでは、何事かがいまだなされずして残っているとの感を除き得ないのである。

新渡戸 稲造「武士道」